本記事は生成AIと共同で執筆しています。事実関係は可能な範囲で公式ドキュメント等と照合していますが、誤りが含まれている可能性があります。重要な判断を行う前にご自身でも一次情報をご確認ください。 なお本記事の数値は、特記のない限り 2026年8月20日時点の実測です。
歴史資料をデータとして扱っていると、避けて通れない問題があります。
「この文書は15世紀後半のものである」と書いたとき、それは見て確かめたことなのか、様式から推論したことなのか、先行研究で読んだことなのか。この区別は扱う人間の頭の中にはありますが、データには残りません。多くの場合、date: "1450/1499" という一行になって消えます。
AI が翻刻や年代推定を出力するようになって、この問題は切迫してきました。出てきた文字列が機械の推測なのか人の確認を経たものなのか、成果物の外形からは区別がつきません。
この区別を書くための語彙は、実はもうあります。 CIDOC CRM の拡張、CRMinf です。しかも観察・推論・伝聞を別々のイベントとして書き分ける設計は、2015年の版から完成していました。
にもかかわらず、私が叩いた公開エンドポイントには見当たりませんでした。 4億9,600万トリプル(RDF でデータを表す最小単位。「主語・述語・目的語」の3つ組で1件を数える)のエンドポイントで0件、という状態です。
書いてみて、なぜそうなるのかを辿った記録です。
CRMinf とは何か
CIDOC CRM(ISO 21127)は博物館・文書館の資料を記述するための国際標準です。公式サイトによれば、開発と維持を担っているのは CIDOC CRM-SIG(ICOM 傘下の CIDOC の作業部会。機関単位で参加するボランティアの共同体)です。
CRMinf はその拡張のひとつです。FORTH ISL のページは「CRMinf is a formal ontology produced by Stephen Stead, Paveprime Ltd and collaborators」として、Stephen Stead 氏と Paveprime Ltd および協力者が策定したものだと書いています。開発拠点は FORTH(Foundation for Research and Technology – Hellas、ギリシャ研究技術財団。1983年設立、クレタ島イラクリオンにあるギリシャの研究機関)で、同ページでは CRMinf: the Argumentation Model(論証モデル。argumentation は「なぜそう言えるのか、という筋道」のこと)と呼ばれています。仕様書自体の題名は "Definition of the CRMinf — An Extension of CIDOC CRM to support argumentation" です。
仕様書 v1.2.1 の表題頁には「Approved by the CIDOC CRM-SIG」「Currently maintained by: Paveprime Ltd, FORTH」とあり、維持は Paveprime Ltd と FORTH の共同です。寄与者として Martin Doerr, Pavlos Fafalios, Athina Kritsotaki, Christian-Emil Ore, Stephen Stead ほかが挙がっています。元になったのは Doerr, Kritsotaki, Boutsika (2011) が発表した IAM モデル(論証を記述するためのモデル。CRMinf はこれを簡略化したものと仕様書に書かれています)です。なお 仕様書は IAM を略語のまま使い、展開形を示していません(v1.2.1 では7箇所すべてが略語のまま。v0.3・v0.5・v0.6・v0.7 も同様でした)。共著者 Boutsika の修士論文(クレタ大学、2010年10月)に「Let us call it "IAM", Integrated Argumentation Model」とあり、Integrated Argumentation Model(統合論証モデル)が展開形です。
現行版は v1.2.1 です(サイトのリリース表は April 2026、仕様書 PDF の表題頁は March 2026 と表記が食い違います)。
CIDOC CRM 系のオントロジーでは、クラスとプロパティに記号がつきます。CIDOC CRM 本体は E(クラス)と P(プロパティ)、CRMinf は I と J、CRMsci は S と O です。中核は次の4クラスです。
| クラス | 意味 |
|---|---|
I1_Argumentation | 論証という行為。E7_Activity のサブクラス |
I2_Belief | ある主張の集合を、ある主体が、ある期間、真だと考えている状態 |
I4_Proposition_Set | 主張そのもの(「文書Aは15世紀後半のものである」) |
I5_Inference_Making | 推論という行為。I1 のサブクラス |
設計の要はここです。「この主張をどれくらい信じるか」を点数や欄で書くのではなく、その I2_Belief に何がぶら下がっているかで資格が決まります。 推論がぶら下がっていれば推論由来、伝聞がぶら下がっていれば伝聞由来。別欄で申告させない。
この発想の背景には、CIDOC CRM 本体の E13_Attribute_Assignment の scope note(クラスやプロパティの意味を説明する定義文)にある次の一節があります。
知識ベースに記述されたすべてのプロパティは、誰かの意見である。既定では、それは知識ベースを維持しているチームの意見である。この事実を、維持チームが提供したプロパティについては個別に登録してはならない。意見についての記述が誰の意見か、という無限後退に陥るからである。したがって
E13_Attribute_Assignmentの使用は、維持チームが当該言明の妥当性に対して一般に中立であり、他者の意見とその成立過程を登録しているという事実を標示する。
「全部が誰かの意見だが、全部を書くと無限後退する。だから明示的に書くのは他者の意見を扱う場合だけ」——CRMinf はその場合を、1命題ではなく命題の集合と推論構造まで含めて書けるようにしたものです。
書いてみる(1)推論
古文書の年代比定を書きます。「料紙と書風から、15世紀後半と考える」という判断です。
使うプロパティを、v1.2.1 の RDFS(RDF Schema。クラスとプロパティの定義を機械可読に書くための語彙。ここではオントロジーの配布物そのもの)から実際の domain(そのプロパティの主語になれるクラス)と range(目的語になれるクラス)とともに確認しておきます。
| プロパティ | domain | range |
|---|---|---|
J1_used_as_premise | I5_Inference_Making | I2_Belief |
J2_concluded_that | I1_Argumentation | I2_Belief |
J3_applied | I5_Inference_Making | I3_Inference_Logic |
J4_that | I2_Belief | I4_Proposition_Set |
J5_holds_to_be | I2_Belief | rdfs:Literal |
推論の部分はこれで書けます(記法は RDF を書くための Turtle です)。
@prefix crm: <http://www.cidoc-crm.org/cidoc-crm/> .
@prefix crminf: <http://www.cidoc-crm.org/extensions/crminf/> .
@prefix rdfs: <http://www.w3.org/2000/01/rdf-schema#> .
@prefix ex: <https://example.org/monjo/> .
# 適用する推論の規則
ex:logic-youshiki
a crminf:I3_Inference_Logic ;
rdfs:label "古文書学における料紙と書風にもとづく様式編年" .
# 推論という行為
ex:inference-1
a crminf:I5_Inference_Making ;
crm:P14_carried_out_by ex:nakamura ;
crminf:J1_used_as_premise ex:belief-washi ; # 前提(次節で作る)
crminf:J3_applied ex:logic-youshiki ;
crminf:J2_concluded_that ex:belief-nendai .
# 結論としての信念
ex:belief-nendai
a crminf:I2_Belief ;
crminf:J4_that ex:prop-nendai ;
crminf:J5_holds_to_be "likely" .
ex:prop-nendai
a crminf:I4_Proposition_Set ;
rdfs:label "文書Aの成立は15世紀後半である" .
読み下すとこうなります。
中村という主体が、料紙についての信念を前提とし、古文書学の様式編年という規則を適用して、「文書Aの成立は15世紀後半である」という信念に至った。その確信の度合いは "likely" である。
結論と、そこに至った経路が、同じグラフに入りました。
I3_Inference_Logic を独立したノードにしている点が効きます。「様式編年」という規則そのものが、他の文書からも参照される実体になる。 仕様書の I5 の scope note は、この目的をはっきり書いています。
I5 Inference makingのインスタンスを記録することが第一に可能にするのは、結論から前提へ、さらに一次証拠まで遡って知識の依存関係を辿ることであり、それにより、複雑な推論連鎖の任意の中間段階で知識が改訂されたときに、現在の確信のどこまでが影響を受けるかをクエリで絞り込めるようになる。
「官途名(人物が名乗った官職名。名乗りの時期から文書の年代を絞る手がかりになる)の年代推定が改訂されたとき、影響を受ける文書はどれか」を SPARQL(RDF データに対する問い合わせ言語。SQL の RDF 版にあたる)で引ける、ということです。仕様書が I5 の第一の効用として挙げているのが、この依存関係の遡行です。
書いてみる(2)観察 — 接続宣言はファイルの末尾に3行だけある
残るは前提のほうです。ex:belief-washi(料紙は楮紙である)は、実物を見て確かめたこと。推論ではありません。
CRMinf が自分で定義するクラスは14件です。RDFS から機械抽出するとこうなります。
I1_Argumentation I11_Situation
I2_Belief I12_Adopted_Belief
I3_Inference_Logic I13_Intended_Meaning_Belief
I4_Proposition_Set I14_Provenance_Belief
I5_Inference_Making I15_Provenance_Assessment
I7_Belief_Adoption I16_Meaning_Comprehension
I10_Provenance_Statement I17_One-Proposition_Set
観察に当たるクラスは、この14件の中にはありません。
ここで「CRMinf は観察を扱わない」と早合点しかけました。間違いです。 RDFS の末尾に、外部クラスを CRMinf の階層へ接続する宣言が3行だけ置かれています。
<rdf:Description rdf:about=".../cidoc-crm/E13_Attribute_Assignment">
<rdfs:subClassOf rdf:resource="I1_Argumentation"/>
</rdf:Description>
<rdf:Description rdf:about=".../crmsci/S27_Observation">
<rdfs:subClassOf rdf:resource="I1_Argumentation"/>
</rdf:Description>
<rdf:Description rdf:about=".../crmsci/S28_Observable_Situation">
<rdfs:subClassOf rdf:resource="I11_Situation"/>
</rdf:Description>
つまり CRMinf は観察クラスを自分では定義せず、CRMsci の S27_Observation を I1_Argumentation の下に置くという形で取り込んでいます。私が見落としたのは、これが rdfs:Class ではなく rdf:Description で書かれ、ファイルの一番最後にあるからでした。この読みにくさ自体が、後で述べる「広まらなかった事情」の一例です。
しかもこれは新しい話ではありません。2015年の CRMinf v0.7 の RDFS にも S4_Observation ⊑ I1_Argumentation の宣言が入っています(⊑ はサブクラス関係、rdfs:subClassOf のことです。またこの S4_Observation は、CRMsci 3.2 で S4_Single_Observation に改称された同一クラスです)。観察と論証は最初から接続されていました。
書くとこうなります。
@prefix crmsci: <http://www.cidoc-crm.org/extensions/crmsci/> .
ex:monjo-A
a crm:E22_Human-Made_Object , crmsci:S15_Observable_Entity .
# 観察という行為(S27 は I1_Argumentation の直接のサブクラス)
ex:observation-1
a crmsci:S27_Observation ;
crm:P14_carried_out_by ex:nakamura ;
crm:P4_has_time-span ex:ts-20260820 ;
crmsci:O35_observed_entity ex:monjo-A ;
crminf:J2_concluded_that ex:belief-washi . # ← 観察が信念を結論する
ex:belief-washi
a crminf:I2_Belief ;
crminf:J4_that ex:prop-washi ;
crminf:J5_holds_to_be "true" .
ex:prop-washi
a crminf:I4_Proposition_Set ;
rdfs:label "文書Aの料紙は楮紙であり、簀の目の間隔は…である" .
S4_Single_Observation ではなく S27_Observation を使うのには2つの理由があります。ひとつは S4 が E13_Attribute_Assignment のサブクラスでもあり、仕様書が「E13 に対する J2 の直接使用は J33 assigned proposition 経由に限る」と明文で制限していること。もうひとつは S4 が「単一の二項命題で記述できる観察」に限定されており、複数の所見をまとめた命題集合には合わないことです。S27 を使う場合、観察対象を指すプロパティは O8_observed ではなく O35_observed_entity になります。
伝聞も同じ形で書けます。
ex:adoption-1
a crminf:I7_Belief_Adoption ;
crm:P14_carried_out_by ex:nakamura ;
crminf:J7_is_based_on_evidence_from ex:mokuroku-1985 ; # range は E73 Information Object
crminf:J2_concluded_that ex:belief-tenshou .
I7_Belief_Adoption の scope note が、この分類の意味を明快に書いています。
I7 Belief Adoptionの基礎にあるのは、採用される命題の出所への信頼の正当化であって、論理的前提から当該命題を導く規則の適用ではない。典型例は学術論文の引用やデータセットの再利用である。
観察でも推論でもなく「信頼にもとづく採用」という第三のカテゴリを立てている。先行研究を引くという行為が、独立したイベントとして書けます。
これで 観察 → 信念 →(前提として)推論 → 信念 の連鎖が繋がりました。ex:belief-nendai から線をたどれば I5_Inference_Making を経て S27_Observation まで届きます。どこまでが見たことで、どこからが考えたことかが、グラフの形から読み取れる。
残っている穴
モデルは完成していますが、機械可読版には無視できない穴があります。
I6 Belief Value がクラスとして存在しない
J5_holds_to_be(どれくらい確からしいと考えるか)の scope note にはこうあります。
このプロパティは
I2 Beliefのインスタンスを、当該I4 Proposition Setの真偽についての特定のE39 Actorの見解を反映するI6 Belief Valueと関連づける。
ところが先ほどの14クラスに I6 はありません。 RDFS を検索しても、I6 は4箇所の scope note(I1、I2、J5、J33)に現れるだけで、クラスとして定義されていない。そして J5_holds_to_be の実際の range はこうです。
J5_holds_to_be domain=I2_Belief range=rdfs:Literal
理由は v0.7 の RDFS の冒頭コメントに明記されていました。
- モデルにおいて形式的完全性のために参照されている基本値 "I6 Belief Value" は、rdf:literal として解釈される。
一方、仕様書側の I6 の定義はこうです。
このクラスは
I2 Beliefの真理値のあらゆる符号化を含む。離散論理、様相論理、確率、ファジィ、その他任意の適切な表現体系で表現しうる。柔軟性の最低要件は3値、すなわち 'TRUE'、'FALSE'、'UNKNOWN' である。
「様相論理でも確率でもファジィでも表せる」と謳っておきながら、機械可読版ではただのリテラルに潰れる。
結果、実装ごとに信念値がばらばらです。実データを見ると次のようになっていました(ResearchSpace は大英博物館を中心に開発された CIDOC CRM ベースの研究基盤、ECPA は18世紀英詩のアーカイブ、CHINT(Cultural Heritage Interactions Ontology)は有形・無形の文化遺産の相互作用を時間軸で記述するドラフト段階のオントロジー、NIE-INE(National Infrastructure for Editions)はスイスの学術校訂・電子エディションのための人文学研究基盤です)。
| 実装 | 信念値の書き方 |
|---|---|
| ResearchSpace | "Agree" / "Disagree" / "No Opinion"(独自3値の文字列) |
| ECPA(18世紀詩アーカイブ) | "false"^^xs:boolean |
| CHINT(聖遺物箱の修復判断のドラフト事例) | ex:appropriate(真偽ではなく「適切」。しかも RDFS に無いはずの I6_Belief_Value をクラスとして使用) |
| NIE-INE | 独自9値クラス(certain / veryLikely / …) |
| チューリヒ州立文書館 | NIE-INE を流用しつつ uncertain を足した独自10値クラス |
相互運用の要であるはずの信念値が、実装ごとに互換性を失っています。
さらに NIE-INE とチューリヒ州立文書館は、信念値を I2_Belief のサブクラスとして定義しています。仕様の意図からすれば I6 Belief Value のはずですが、そのクラスが RDFS に無いので、I2 に繋ぐ以外の選択肢がなかったと読むのが自然です(I2_Belief は E2_Temporal_Entity のサブクラス、つまり期間なので、値をそこにぶら下げるのは本来おかしい)。モデルと配布物の齟齬が、誤用を生んでいます。
推論クラスが2つある
CRMinf に I5_Inference_Making、CRMsci に S5_Inference_Making。どちらも I1_Argumentation のサブクラスです。S5 の scope note(英文で397文字・55語)は I5 の冒頭2文とほぼ同文で、I5 はその後に約1,050文字を追加しています。v0.7 の RDFS のコメントに事情が書いてあります。
- RDF は2つのクラスの間の同値性を宣言する方法を提供しない。したがって
I5 Inference MakingがS5 Inference Makingと同値であるという情報は失われる。
どちらを使うべきかは、実装者が決めるしかありません。
「信念を否定する」ことの含意が未決着
命題そのものの否定は書けます。I17_One-Proposition_Set(命題ちょうど1個の集合)を J4_that で指す I2_Belief を立て、その信念に J5_holds_to_be "FALSE" を与えれば書けます。J5 の domain は I2_Belief なので、命題集合に直接ぶら下げることはできません。仕様書の I11 Situation の scope note も「否定にも使える。例:『人物 A と B は会った、は FALSE』」と明記しています。絵図の年代比定でよく使う「ある門が描かれていない。その門の撤去は文化二年(1805年)。よってこの絵図は文化二年以降」という推論も、「この絵図にその門が描かれている」という1命題を立て、それを FALSE と保持する信念を書けば表現できます。
未決着なのはもう一段上です。CIDOC CRM SIG の Issue 645「negating beliefs」(Open、最終更新 2023-12-15)は「I2 Belief を否定するとは何を意味するか」——ある信念を拒否する、部分的にだけ採用する、という行為をどう書くか——を議論しており、I7_Belief_Adoption の意味を拡張する案が検討中です。複数命題を含む I4_Proposition_Set を否定しても「どれか1つが偽」としか言えないため、集合レベルの否定は粗いままです。
で、誰が使っているのか
公開されている SPARQL エンドポイント3件に実際にクエリを投げた結果です(2026年8月20日時点)。
artresearch.net(前掲の ResearchSpace をもとにした公開プラットフォーム)
総トリプル数: 496,396,610
Belief / Assertion / Argument / Proposition を含むクラスのインスタンス: 0
4億9,600万トリプル。CRMinf インスタンス 0。
bso.swissartresearch.net(SARI=Swiss Art Research Infrastructure。チューリヒ大学がホストし、ETH チューリヒ(gta 研究所)およびスイス美術研究所 SIK-ISEA と共同で運営される、スイスの国家的な美術研究基盤)
総トリプル数: 8,833,006
I4_Proposition_Set: 206
その他の CRMinf クラス: 0
CRMinf のプロパティ (J1–J33): 0
中身を見ると、この206件は、ResearchSpace が RDF リソースの集合を管理するのに使っている LDP コンテナ(W3C 勧告 Linked Data Platform 1.0 が定めるコレクション資源。メンバーの作成・列挙に HTTP で応答する)に付けられた型ラベルにすぎず、I2_Belief も J4 も J5 もありません。14クラス52プロパティのモデルが、1クラスに縮退している。
NFDI4Objects(ドイツの研究データ基盤 NFDI のうち、物質文化を扱うコンソーシアム)には I1_Argumentation が 688 件ありましたが、こちらも J系プロパティは1件も実体化されていません。型が付いているだけ。
もうひとつ、実装者側から取られた数字があります。カナダ文化情報ネットワーク(CHIN)と Takin.solutions が CIDOC CRM SIG のメーリングリストで実施した実装者アンケート(回答収集は2020年10–12月、報告書は2022年3月)の、本文「3. Named Graph Function」の設問 6.d. の分析パートです。名前付きグラフとは、トリプルの集合に URI を与えて出典や来歴を紐づける仕組みのことです。
6.d. 論証や推論の記録に名前付きグラフを使っている場合、どの種類の論証か。CRMinf を適用しているか。その名前付きグラフ戦略はこの作業をどう可能にしているか。
(分析)この設問に対する回答は1件のみであり、それも ResearchSpace の機能として実装されているという内容だった。
CIDOC CRM の主要実装者11者に聞いて、論証記録に CRMinf を使っていると答えたのは1者だけ。
なお ResearchSpace 自身は、CRMinf のオントロジー一式と、論証を記述するための UI モジュールを20件、リポジトリに含めています。道具は作られ、配られている。しかし私が叩いたエンドポイントの公開データには見当たりませんでした。
I7_Belief_Adoption で GitHub のコード検索をかけると95件のファイル(54リポジトリ)がヒットしますが、その6割強(61件)は v0.7 の RDFS ファイルそのもの(CRMinf_v0.7.rdfs.xml が54件、CRMinf_v0.7_.rdfs など同じファイルの別名が7件)です。Arches(文化遺産の目録を管理するオープンソース基盤)とその派生(EAMENA、Historic England、BC州政府など)が標準の CIDOC CRM 一式に11年前の v0.7 を同梱しているためです。「あるプロジェクトが CRMinf を採用」と書くときは、ここを区別しないと誤りになります。
なぜ広まらなかったのか
モデルは完成しているのに、私が叩いたエンドポイントの公開データには見当たらない。手がかりは配布の側にありました。
1. 11年間、Stable 版が更新されなかった。
| Version | Release | Status |
|---|---|---|
| 1.2.1 | 2026年4月 | Stable |
| 1.2 | 2025年5月 | Draft |
| 1.1 | 2024年12月 | Draft |
| 1.0 | 2023年10月 | Draft |
| 0.10.1 | 2019年10月 | Draft |
| 0.9 | 2018年11月 | Draft |
| 0.8 | 2017年10月 | (Current version) |
| 0.7 | 2015年2月 | Stable |
(v0.6・v0.5・v0.3 は省略しています。実際のリリース表は全11行です。)
2015年2月の v0.7 が Stable のまま据え置かれ、2026年4月の v1.2.1 まで11年間、Stable 版が更新されませんでした。 その間、実装者が手にできた機械可読ファイルは実質 v0.7 だけです。
2. 仕様書に名前空間 URI が一度も書かれていない。
v1.2.1 の仕様書 PDF を全文検索しても(3,070行)、"namespace"、"cidoc-crm.org/extensions"、"ics.forth.gr" のいずれも 0 件です。仕様書を読んで実装しようとした人は、使うべき URI を知る手段がありません。
3. リリース表から最新の機械可読版に辿り着けない。
https://cidoc-crm.org/crminf/fm_releases の Encodings 欄は、v1.2.1 を含む全11行で空です。RDF が Available Documents 欄にまぎれてリンクされているのは Version 0.7 の行だけ(計3本)で、v0.8 以降のどの行にも機械可読版へのリンクがありません。兄弟モデルと比べると差は歴然です。
| モデル | 最新 Stable | Encodings 欄 |
|---|---|---|
| CRMinf 1.2.1 | 2026年4月 | 空欄(名前空間の表示すらなし) |
| CRMsci 3.2 | 2026年4月 | 名前空間 + RDFS (main, owl, gitlab) + XML + クラス/プロパティ定義 |
| CRMtex 2.0 | 2023年6月 | 名前空間 + RDFS (main, pc, owl, gitlab) + XML + クラス/プロパティ定義 |
RDFS と OWL(Web Ontology Language。RDFS より表現力の高いオントロジー記述言語)は存在します。
https://cidoc-crm.org/extensions/crminf/rdfs/1.2.1/CRMinf_v1.2.1.rdf (53,818 B)
https://cidoc-crm.org/extensions/crminf/owl/1.2.1/CRMinf_v1.2.1.owl (134,227 B)
到達するには URL パターンを推測するか、名前空間 URI をコンテントネゴシエーション(同じ URL に対し、要求するデータ形式によって別の内容を返す仕組み)で叩くしかありません。名前空間 URI に Accept: application/rdf+xml を付けると 303 See Other でここへ飛びます。
4. 結果として、名前空間が3つに割れている。
| 名前空間 | 出自 | 現在 |
|---|---|---|
http://www.ics.forth.gr/isl/CRMinf/ | v0.7 RDFS の xml:base | リダイレクトの末に FORTH のエラーページ(/404-page-not-found)=実質引けない |
http://www.cidoc-crm.org/extensions/crminf/ | v1.2.1 RDFS の xml:base | 200(RDFS を返す) |
http://www.cidoc-crm.org/crminf/ | 不明 | HTML は 200(CRMinf 紹介ページ)/Accept: application/rdf+xml では 404 = RDF として引けない |
GitHub 上で最も多く同梱されている v0.7 が用いる URI が、いま引けません。 そして同じ I1_Argumentation のつもりでも、URI が違えばトリプルストアの中で結合しません。
私が接続宣言を見落としたのも、この系列の問題です。モデルの難しさではなく、どこに何が置かれているかが分からないという一点で躓く。同じ躓きが11年ぶんの実装に積み重なった可能性があります。
日本語の解説記事は、調べた範囲では見つからない
調べた範囲では、CRMinf を日本語で解説した記事・論文は見つかりませんでした。
| 検索先 | CRMinf |
|---|---|
| CiNii Research | 0件 |
| 国立国会図書館サーチ | 0件(CIDOC CRM は44件ヒット) |
| J-STAGE 全文検索 | 0件(ヒット1件は1995年の土木工学論文で、CRMinf とは無関係な誤ヒット) |
| Qiita / Zenn / note / はてなブックマーク / SpeakerDeck | 各0件 |
| 人文情報学月報(全175号・302ページをクロール) | 0件 |
| Wikipedia 日本語版「CIDOC 概念参照モデル」 | 0件 |
ただしこの表の読み方には注意が要ります。CiNii と NDLサーチは本文を索引していないため、この 0 件は「タイトル・抄録・キーワードに現れない」ことしか示しません。 実際、後述する Ye・Takaku 2026 は CiNii に収録されていますが CRMinf では引けません。全文まで見た検証は J-STAGE と人文情報学月報のクロール、および site:jp 検索によります。情報処理学会電子図書館の全文横断は実施できていません。
日本語で「CRMinf」の語が出てくるのは、私が確認できた範囲では2箇所だけです。
- 津田光弘「≪第83回 国際ARCセミナー(Dominic Oldman氏)レビュー≫国際ARCセミナー報告 : 大英博物館の「リサーチスペース」の講演とその試用から」『アート・リサーチ』vol.22-1, 立命館大学アート・リサーチセンター, 2022年3月, pp.23–24. DOI: 10.34382/00018174 — ResearchSpace のデモ紹介の文脈に1文だけ
- J-GLOBAL の機械翻訳抄録(JGLOBAL_ID: 202302219508263797。原論文は Murano et al., JOCCH 16(3), 2023 で英語)
いずれも解説ではありません。
日本発の CRMinf 実利用研究は、私が確認できた範囲では Ye, X.・Takaku, M.「Construction of an LOD model for Chinese literary theory」(LOD は Linked Open Data。RDF で公開され、相互に参照しあうデータの総称)(情報処理学会研究報告 人文科学とコンピュータ、2026-CH-141(2)、2026年5月)の1件だけです。CRMinf v1.2.1 を参照し、I13_Intended_Meaning_Belief まで使っています。同論文の次の指摘(原文は英語、拙訳)は、この記事の問題意識とそのまま重なります。
人文学の既存データセットの多く、たとえば国立国会図書館が構築した典拠データや、ハーバード大学が構築した China Biographical Database は、人文学の知識を静的な対象として扱い、そうした知識が生み出される過程を軽視する傾向がある。それは人文学の知識が確実で客観的なものであるという誤解を容易に生む。
なお、CIDOC CRM の「拡張ファミリー」を日本語で紹介した記事は、私が見つけた範囲では2本です。小川潤氏による CRMtex の解説(人文情報学月報 第149号、2023年12月)と、山口欧志氏による CRMdig・CRMarchaeo の解説(奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』第189号「文化財三次元データの標準を考える」。全国遺跡報告総覧への登録日は2026年2月3日)です。後者は「CIDOC CRM には、文化財の様々な場面に応じた11の拡張概念モデルがあります」として、CRMdig の D2・D3・D10・D11 や CRMarchaeo の狙いまで日本語で説明しています。ただしいずれも CRMinf には触れていません。
まとめ
CRMinf の設計は、古文書学の手続きによく対応します。
観察・推論・伝聞を別々のイベントとして立て、それぞれが I2_Belief を結論する。信念に何がぶら下がっているかで資格が決まる。推論規則を独立した実体にすることで、規則が改訂されたときの波及範囲をクエリで辿れる。見たこと・考えたこと・借りたことを分けて書くという点で、古文書学が実際に行っている手続きと形が一致します。しかもそれは11年前から動く形で存在していました。
行き届いていないのは、モデルではなく配布のほうに見えます。
- 11年間 Stable 版が v0.7 のまま据え置かれ、その間に Arches 系をはじめ GitHub 上の多くのリポジトリが v0.7 を同梱した
- 仕様書に名前空間 URI が書かれておらず、名前空間が3つに割れた
- 最新の機械可読版が、リリース表からリンクされていない
- RDFS 化の過程で
I6 Belief Valueが消え、信念値が実装ごとにばらばらになった - 外部クラスとの接続宣言が、ファイル末尾に3行、
rdf:Descriptionの形で置かれている
配布の側にこれだけの穴があるなかで測った数字が、artresearch.net の4億9,600万トリプルに0件であり、実装者アンケートの11者中1者でした。
最後に、Huggett (2020) が CRMinf について書いた一節を引きます。批判ではなく、使い方の提案として。
CRMinf が定義するような論証モデルを適用することは、明示的な事実について推論するよう設計されているので暗黙知を外在化するためのものではないが、形式モデルから「こぼれ落ちたもの」「収まらなかったもの」という形で、暗黙的な要素を明るみに出すかもしれない。
形式モデルに収まらなかったものを見ることで、かえって何を暗黙に前提していたかが分かる——書いてみて何が書けないかを知るというのは、そういうことでした。そして今回については、書けないと思ったことのほうが、私の読み落としでした。
検証の方法について
本記事の記述のうち、次は筆者が一次資料を直接取得して確認したものです。
- CRMinf v1.2.1 RDFS のクラス14件・プロパティ52件、
J1–J5,J7の domain / range、owl:importsの宣言、および末尾のrdf:Descriptionによる3つの接続宣言 I6_Belief_Valueがクラスとして定義されておらず4箇所の scope note にのみ現れること、J5_holds_to_beの range がrdfs:Literalであること- CRMinf v0.7 RDFS(2015年)に
S4_Observation ⊑ I1_Argumentationがあること、および Encoding Rules 3・4 の記述 - CRMsci 3.2 の
S27 ⊑ I1/S4_Single_Observation ⊑ E13 + S27/S5 ⊑ I1/S21 ⊑ S27 I10/I14/I15の scope note の対象がE70 Thing(=物の来歴であって処理の来歴ではない)こと
次は並行して走らせた調査エージェント3系統の結果で、複数系統が独立に到達し、相互に訂正を重ねたものです。
- リリース表、Encodings 欄、名前空間の到達性
- 仕様書 PDF に名前空間 URI の記載がないこと
- 公開 SPARQL エンドポイントでの利用状況
- CHIN 実装者アンケートの結果
- 各実装の信念値の書き方
- 日本語文献の不在(上記の検索経路の範囲)
Turtle の記述例は筆者が RDFS の domain / range と仕様書の制限に照らして構成したものであり、公式のサンプルデータではありません。 CIDOC CRM 公式サイトの CRMinf の Use Cases ページは、現時点で "Showing 0 results" です。
なお本記事は一度、事実誤認にもとづく別の内容で書かれ、公開直前の検証で全面的に書き直しています。「観察は接続されていない」という当初の結論は、RDFS 末尾の3行を読み落としたことによる誤りでした。
参照
- CRMinf v1.2.1 仕様書 PDF — https://cidoc-crm.org/sites/default/files/CRMinf_v1.2.1%28stable%29.pdf
- CRMinf v1.2.1 RDFS — https://cidoc-crm.org/extensions/crminf/rdfs/1.2.1/CRMinf_v1.2.1.rdf
- CRMinf v0.7 RDFS(仕様書の版は2015年2月、RDFS ファイルの作成は2015年6月22日)— https://cidoc-crm.org/sites/default/files/CRMinf_v0.7_.rdfs
- CRMinf リリース一覧 — https://cidoc-crm.org/crminf/fm_releases
- CIDOC CRM v7.1.3 仕様書 — https://cidoc-crm.org/sites/default/files/cidoc_crm_version_7.1.3.pdf
- CRMsci: Scientific Observation Model v3.2 RDFS — https://cidoc-crm.org/extensions/crmsci/rdfs/3.2/CRMsci_v3.2.rdf
- 上流リポジトリ(FORTH GitLab)— https://gitlab.isl.ics.forth.gr/cidoc-crm/compatible-models/crminf
- FORTH ISL による解説 — https://www.ics.forth.gr/isl/crminf-argumentation-model
- Doerr, M., Kritsotaki, A., Boutsika, K. "Factual argumentation—a core model for assertions making." JOCCH, 3(3), Article 8, pp. 1–34, 2011. https://doi.org/10.1145/1921614.1921615
- Bruseker, G., Guillem, A., Carboni, N. "Semantically Documenting Virtual Reconstruction: Building a Path to Knowledge Provenance." ISPRS Annals, II-5/W3, pp. 33–40, 2015. https://doi.org/10.5194/isprsannals-ii-5-w3-33-2015
- Marlet, O., Zadora-Rio, E., Buard, P.-Y., Markhoff, B., Rodier, X. "The Archaeological Excavation Report of Rigny: An Example of an Interoperable Logicist Publication." Heritage, 2(1), pp. 761–773, 2019. https://doi.org/10.3390/heritage2010049
- Huggett, J. "Capturing the Silences in Digital Archaeological Knowledge." Information, 11(5), 278, 2020. https://doi.org/10.3390/info11050278
- Bruseker, G.(Takin.solutions)/Canadian Heritage Information Network (CHIN). "Cultural Heritage Named Graph Usage Survey Report (part 1)", Version 1.0, 2022-03-11(回答収集は2020年10–12月). https://chin-rcip.github.io/collections-model/en/technical-reports/current/named-graph-survey-report-1
- Ye, X., Takaku, M. "Construction of an LOD model for Chinese literary theory." 情報処理学会研究報告 人文科学とコンピュータ, 2026-CH-141(2), 2026. https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/records/2025167
- 小川潤「CIDOC CRM を拡張したテクスト情報表現の試み:CRMtex」人文情報学月報 第149号, 2023. https://www.dhii.jp/DHM/dhm149-2
- 山口欧志「文化財三次元データの標準を考える」奈良文化財研究所『埋蔵文化財ニュース』第189号(全国遺跡報告総覧 登録日 2026-02-03). https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/online-library/report/127



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